V  女神降臨


 3−1  風雲は急を告げるか



「…え?」
 雨がしとしと降っていた。
 どんよりとした雲が空を覆い、気分まで沈んでしまうような、そんな日だった。
 血相を変えて店に飛び込んできた近所のおばさんの言っていることが、一瞬、理解できなかった。
「だから、マリッサが暴走してきた馬車にはねられちまったんだよ!あんた、こんなとこで刀磨いてる場合じゃないよ!」
 彼女の言うことの半分も聞かないうちに、店を飛び出ていた。
 つい昨日、会ったばかりなのに。
 買い物に付き合わされて不機嫌なふりをしながらいつ渡そうかとタイミングを計って。一世一代の覚悟を決めてきたはずなのに、いざその場面になると凄く照れくさくてぶっきらぼうに渡してしまったけれど、気持ちは十分に伝わったはずだった。
 左の薬指にはめられたその銀色のリングに愛おしそうに触れるその姿を見て、一生大切にすると、守っていくと心に誓った。その気持ちに偽りは微塵もなかった。
 それなのに。
 棺に入った彼女を何度叩き起こそうとしたか知れない。もう動かないのだと、話しかけてくれることもないのだと必死に言い聞かせても、感情は簡単には抑えられるはずもなく。出来ることならその瞳でもう一度自分を見てくれと頼んだところで、その願いは決して聞き入れられることはない。
 震える手で恐る恐る触れた彼女の肌の冷たさが、未だこの手に残っている。


「あー、物思いにふけってるとこ申し訳ないんだが」
 すぐ傍で軽い咳払いに続き男の声がして、ロジルはハッと顔を上げた。
「ロジル=ニーバスだよな?ちょっと、付き合ってくれ」
 漆黒の瞳がロジルを見つめている。視線がぶつかると、男はそのまま何も言わずに踵を返して歩き始めた。
「えっ?あっ…」
 ロジルは慌てて男の後を追いかけた。



◇ ◆ ◇ ◆



 女は目の前に立つにこやかな笑顔の男を訝しげに睨んだ。
「なによ、あんた。あの男の仲間?」
「あの男?」
「ディットとか言う奴のことよ。あんたも私を連れに来たわけ?」
 男が少し首を傾げていった。
「あー、あいつね。仲間…かなぁ?僕は仲間でも全然構わないけど、向こうは嫌な顔しそうだな。ま、知り合いは知り合いだけどね」
 警戒心剥き出しの女に優しく微笑みかけると、男はさらに続けた。
「確かに君を連れて行こうとしてるんだけど、でも僕は死神じゃないからね。目的地は違う」
「どう違うのよ」
「君、彼女が憎いんでしょ?君の婚約者に近づいていい気になってる、あの女の人」
「………」
「だから、僕が君を彼女と会わせてあげる。言いたいことがあるなら本人に面と向かって言ってやりなよ」
「…普通の人間に、私の姿なんか見えないじゃない」
 男が軽く笑った。
「心配は要らない。彼女には見えるから」
「?」
「詳しいことを知りたければ彼女に聞くといい。どうする?僕と一緒に来るかい?」
「…その前に、あんた誰?」
「僕?僕はライデル」
「何で私が見えるの?」
「人間じゃないから」
「じゃあ…あの女も、人間じゃないの?」
「まあね」
「あんたの仲間?」
「うん。仕事仲間だ」
「なんの仕事よ?」
 男はその質問には答えず、ただ笑っただけだった。
「さあ、どうする。行く?それともそこで手をこまねいて見てるだけで満足してる?」
 少しばかり挑発を含んだその科白は女を奮い立たせるには十分だったらしい。
「行くわよ。行ってやろうじゃないの。日頃の鬱憤全部ぶちまけてやるわ!」
 どうやら凄まじい戦いが繰り広げられそうである。



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