U 生者と死者
2−1 判断ミス
「本当に行かせてしまって良かったんでしょうかねぇ?」 背後でザクトの声がした。 「…どういう意味で?」 彼に背を向けたまま、ライデルは黙々と仕事を続けている。 「色んな意味で、ですよ。まあ、ディットと一緒に行かせたのもひょっとしたら失敗だったかもしれませんが」 「そそのかしたのは、君だよ」 「あなたを行かせるわけにはいきませんでしたからね。それに、話を聞く限りでは、男よりも女の方が適役みたいでしたし」 「そりゃそうだ。彼だって男に色目を使われるのは嫌だろうからね。彼女を消沈させるためには女じゃなきゃ意味がない」 相変わらず後ろを向いているのでザクトにはライデルの表情は分からなかったが、少し笑いを含んだような声だった。 「それにしても、ミルディじゃないけど、あいつも腕が鈍ったのかな?わざわざこんなところにまで助力を求めてくるなんて」 「珍しいですね、確かに。ただ単にミルディに会いたかっただけみたいな気がしなくもないですけど」 ザクトの冷たい科白にライデルはフッと笑みを漏らしたが、ふと何かに気付いたように動かしていた手を止めた。 「…僕が処理した書類の中に、彼女のデータがあったよ」 「え?」 「予定では、まだまだ長生きするはずだったけどね。不慮の事故だってさ」 「例外組だった、と?」 「そういうことになるかな」 ライデルは再び手を動かし始める。 「あまりにも急な自分の死に、思考が追いつかないわけですか…」 しばしば、いるのだ。 こちらが描いた運命どおりの一生を終えない人間が。 そういう人たちのことを『例外組』と呼んでいる。 原因の代表的なものは、自殺。ここでは人生の終わりに自殺などというものは織り込んでいない。自殺はこちらとしてもまったくの予定外なのである。おまけに自殺する人間というのは何かしら現世に強い思い入れを持っている。魂が肉体から離れていても、精神は肉体にしがみついていることが多いのだ。その度にザクトなんかはわざわざ審判の門まで呼び出され、その人間の生を完全に断ち切らなければならない。 そして原因のもう一つは、自殺よりも割合は少ないが、不慮の事故というやつである。 これは自殺よりもタチが悪い。何故なら本人に「死」という認識がないからである。己の死を理解していない。自分はまだ普通に生きていると思い込んでいる。当然、周囲の人間の態度の変化に戸惑い、そんな中で自分の死を突きつけられ、発狂する。覚悟のない死なだけに現世に対する執着心が何倍も強いので、認めさせるのに苦労するのだ。 最も、説得は死神の仕事である。よって、担当になったディットがいつものように説得に向かったわけなのだが。 「もう、聞く耳も持ち合わせちゃいないって感じ。俺の声どころか存在まで無視してくれてさ。あんな屈辱的なのは初めてだぜ?」 ディットは溜め息混じりにそう言った。 「やっぱり誑しの腕が鈍ったんだ?」 頬杖をついてヤル気のなさそうなディットの顔を覗き込んで、ライデルは面白そうに茶々を入れる。 「うるせーよ。俺様の説得で落ちない女なんか普通はいねーんだっ」 両手で拳を作ってライデルの頭を力任せにグリグリと挟み込むと、ライデルが痛い痛いと連発する。 「じゃあ、この人は普通じゃないんですね。ま、私もその意見には賛同しますけど」 隣に座るミルディを横目で見て、ザクトは再び視線を正面に戻した。 「どういう意味よ。あたしは女っ誑しが嫌いなだけよ」 「ひどいなぁ、俺が愛してるのは君だけだぜ。他のは仕事だ、仕事」 「どーだか」 ディットの魔の手から抜け出したライデルが口を挟んで、再びゲンコツで頭を挟まれる。 涙目になってギブアップを訴えるライデルを一瞥して、ザクトがディットに確認を取った。 「とにかく、要は、彼女に自分の死を認めさせることですね?そのために、彼女が現世を離れたがらない原因である男をミルディに陥落させる、と」 「そゆこと。そうすりゃ少しは俺の話も聞こうって気になるだろ。悲しみにくれる女には優しい言葉の一つや二つ掛けてやれば一発さ」 ディットは後々この考えが甘いことを知ることになるが、今の彼にそんなことがわかるはずもなかった。もしかしたら、この時点で本当に彼の仕事の腕は落ちてきていたのかもしれない。 とりあえずその計画を実行すべく、今、ディットはミルディを引き連れて下界に下りている。 「無理もないとは思うけどね。何しろ死ぬにはかなり早すぎる年齢だ」 「でも、魂は肉体から離れた状態です。嫌でも認識せざるを得ないと思うのですが…」 「だから、認識したくないんだよ。死ぬのは怖いから」 ライデルは作業の手を休めて振り返った。金色の瞳がザクトを見据える。 「人間にとって死ほど不確かなものはないのさ。死んだ後にどうなるのか、誰も知らないんだからね。転生とは言っても前世の記憶はまず残っていないし、ましてや死んでから転生するまでの間のことなんか覚えているわけがない」 「だから、怖いんですか」 「それもあるし、後は…そうだなぁ、死んでしまうことによって友人・知人の記憶から自分が消えてしまうことも、原因の一つではあるだろうね」 自分という存在が完全に消滅してしまうわけだし、というライデルの言葉にザクトは首を傾げた。 「でもそれは仕方のないことでしょう?記憶なんて風化するものですよ。自分だって、係わった全ての人を一人残らず覚えているわけじゃあるまいし」 「そう、もっともだ」 ライデルの人差し指がザクトを指す。 「それが、分かっているから。記憶なんて曖昧でいい加減なものだと理解しているから、怖いのさ。自分がその立場に立たされることがね」 「なんとまあ自分勝手な。死は避けられない ザクトが肩を竦める仕草をすると、それを見てライデルがクスリと笑いを漏らす。 「それが人間ってもんだよ。複雑に造られているんだ。それに、避けられない 「…はあ?アナタ、さっきと言ってることが正反対ですよ」 ザクトの眉間にシワが寄る。 「死は不確かなものだって言ったじゃないですか」 「同時に確かなものでもあるんだよ。人間は、いつかは必ず死ぬんだから。永遠に死なない人間なんて、少なくとも真っ当な人間じゃない」 「………」 「ただ、いつ死ぬのかが分からないだけだ。死は必ず訪れるのにそれがいつなのか、死んだ後どうなるのか、誰にも分からない。やっぱり死ほど不確かなものはない。そういうわけさ」 「なんだかややこしいですね」 「まあね。だから、死を受け入れられない人間が出ても、なんら不思議ではない」 こちらとしては凄く迷惑なことだけれどね、と付け加えて苦笑する。 「だけど、ミルディを連れて行ったのは面白いかも」 「面白い?」 暫く頭を捻らせていたザクトが、ライデルのその科白に思考を途絶えさせられた。 「うん。だって彼女は聞き分けのないやつが嫌いだろう?これは必ずひと悶着起きるよ」 含むところのありそうな悪戯っ子の笑みを浮かべるライデルに、ザクトは呆れたように目を細めた。 「止める気は、ないんですね?」 「ミルディを指名してきたのはディットだ。僕が口出しすることじゃないね。それに」 一旦言葉を切って、ライデルは立ち上がった。ザクトの横を通り過ぎて部屋のドアの前まで来るとノブに手をかける。 「こんな楽しいことに水を差すなんて野暮なこと、僕には出来ないよ」 そう言ってライデルはドアの向こうに消えた。 薄暗い部屋にザクト一人が取り残される。 「…ディットに限らず、こちらも失敗だったかもしれませんね」 ほったらかしにされた織りかけの糸に目をやってから深い溜め息を吐いた。 |