■第一話  欠陥召喚士 【上】■




「ねえ、まだ?」

「………」

「もう飽きちゃった。出てもいい?」

 フィリシアがスレンダーな尻尾をパタパタと床に打ち付ける。

「ダメだよ、もうちょっとで出来そうなんだから」

「そう言いながら、時計の長針はもう二周もしちゃってるんだけど」

「うるさい」

 いつになく真剣な少年に、召喚陣の中に座っていた彼女は溜め息をついた。
 その時。
 ほひゅっと気の抜けた音がして、僅かな煙が彼女を包んだ。

「…はい、失敗」

 冷たい声がイヤにはっきりと聞こえる。

 煙の中から現れたのは、先程と寸分違わぬ真っ黒な姿。
 フィリシア=フィーリアレーギス=フェーレース。
 ご大層な名前だが、その実体は単なる黒猫である。
 ただ少しばかり他の猫と違うところを挙げるとするならば、人語を理解し喋ることぐらいだ。

 部屋の灯りをその背に受けて気味が悪いほど艶光りしている彼女は、自分の前足を舐めながら言った。

「一つ、いいことを教えてあげましょうか」

「?」

「そこの文字」

 しなやかな前足で召喚陣の一ヶ所を指す。

「間違ってるわよ?」

「――フィリシアっ!!」

 何でもっと早く教えてくれなかったんだ、と憤慨する少年の名はリオ=クルイーク。召喚士見習いの13歳である。
 少年が顔を真っ赤にして怒鳴る文句も彼女にとってはどこ吹く風。

「あら、だってうるさいって怒ったじゃない。それに間違いは上達の土台となるのよ。失敗は成功の基。自分で見つける方が学習になるわ」

 もっともらしく言ってはいるが、九割九分九厘はイジワルである。

「ロインみたいな良い師匠の元で修行していて、何でそんなに上達が遅いのかしらね?」

 フィリシアの科白に信じられない言葉を聞いた気がして少年は眉を顰めた。

「――良い?良い師匠だって?あの人が、お前、良い師匠だって言うの?」

「人間としては問題あるけど、少なくとも召喚士としては有能でしょ?」

 まあ、先生として適役かどうかも甚だ疑問だけど。
 そんなフィリシアの科白に重なるように、床の扉が来客を告げた。

『キタゾキタゾ、ナニカガキタゾ。アケルトキハヨウチュウイ、オシウリダッタラツキオトセ!』

 長ったらしいドアベルだが、この術をかけたのは他ならぬ少年の師匠である。何とも疑いたくなるようなセンスだ。
 少年が部屋の隅へ移動し、床に向かって話しかける。

「どちら様ですか?」

「僕だよ。マレクだ」

 扉を持ち上げると、一人の男が少年を見上げていた。

「入ってもいいかな?」

「あ、どうぞどうぞ、上がって下さい」

 少年が道を譲って、男が部屋に上って来た。

 男が通ってきたこの暗い階段の先は、魔界へと繋がっている。
 数多の物の怪や異形が闊歩する暗黒世界。
 この屋敷の地下に、それは存在する。
 マレク=ブラベウス。魔界と人間界を繋ぐ門の門番【ダルバーン】で、少年の師匠の友人(マレク談)だそうだ。
 「あいつは疫病神だ。のほほんとにこやかに俺を罠に落としやがる」とは師匠の談である。

 彼は少し離れたところに座っている黒猫を認めて手招きをし、寄って来た彼女を抱き上げて挨拶を交わした。

「やあ、フィ。相変わらず綺麗だね」

「ありがとう」

 マレクの愛撫に喉をゴロゴロと鳴らして黒猫が応える。
 彼女の下にあった模様に気が付いてゆったりと笑った。

「ん?変化の召喚陣か。練習中だったんだね。邪魔しちゃったかな?」

「あら、大丈夫よ。己の無能っぷりに嫌気が差してたところだから」

「お前が答えるなっ」

 少年が顔を紅潮させて怒鳴る。
 マレクが苦笑しながら少年に尋ねた。

「ところでリオ君。きみのお師匠様は何処かな?ここにはいないようだけど」

「ああ、寝てますよ。あっちのソファで伸びてるはずです」

「また?まったく、僕がここに来る時に起きていたことが一回もないね、あいつは」

「お前は必ずと言っていいほど凶事を連れて来るからな。俺としちゃ狸寝入りを決め込みたいのさ」

 マレクが少年に愚痴をこぼした時、二人の背後で欠伸混じりの声が聞こえた。

 部屋の戸口に長身の男が立っている。
 寝癖か元々なのか漆黒の髪はあちこちに跳ね歩き、着ている服はしわくちゃだ。燃え盛る炎のような紅い瞳に涙を浮かべ、気だるげな表情で訪問者を見る。

「何の用だよ?」

 ロイン=ウェスペル。
 この屋敷の主にして、人間としては問題があるが召喚士としては有能らしい、少年の師匠。

「わあ、これはまた酷い格好だ。お客さんの前でぐらいキチンと身なりを整えなさいよ」

「はん、バカバカしい。てめえ相手に見栄張ってどーすんだ」

「僕だけに限ったことじゃないよ。ここには都合上色んな人が来るんだから、気を張ってないとダメだろってこと」

「なんで自分の家で気を張らにゃならんのだ。大体こんなトコ、知り合いしか来ねぇよ。誰も近付きたがらねぇしな」

「でもこれから奇襲が来るんだよ?」


 あっさりとした、爆弾発言。


「――あん?」

 この男、今、何つった?


「なんて間抜けな顔してるんだい。僕の言うことちゃんと聞いてる?これから奇襲が来るって言ってるんだよ」


 マレク=ブラベウス、凶事と共にやってくる男。
 例に依って例の如し。




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 闇に愛でられる黒の世界。
 人外生物の宝庫。
 そこは、悪意と陰惨が蔓延る魔境。
 魔の力で覆い尽くされる世界。
 霞に紛れて囁かれるのは、良からぬ画策。


「準備は」

 短く尋ねる声は、年配の男性のものだ。

「ぬかりありません。いつでも実行できますよ」

 それよりも少しだけ若い声が受け答える。

「よもやこの計画が外部に漏れているなんてことはあるまいな?」

「もちろんでございます。知っているのは極少数。おまけにみな口が堅く昇進願望の強い者ばかり。自分の首を自分で絞めるような馬鹿な真似は致しませんよ」

 ニヤニヤと下品な笑みが明かりに照らされる。

「奴に関しては、失敗は許されんぞ。勝つか負けるかではない。…生か死か、だ」

「…御意」

 一段低くなった上司の声に、部下の顔からも笑みが消えた。




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 室内に沈黙が走った。
 それを破ったのは幼き少年の叫び。

「ええっ!奇襲が!?し、師匠、どうしましょう!?奇襲が来るって!逃げなきゃ!!」

「うるせぇな、落ち着け」

 忙しなく動く弟子の頭をガシッと掴み挙動を止める。

「おい、こら」

 ロインの低音が、地を這ってマレクを呼んだ。

「その情報の(ソース)は何処だ。正規のルートじゃねえよな?」

「僕は魔界と人間界の門番だよ?知ってることがそんなに不思議かい?」

「…いい事を教えてやろう。奇襲ってのは相手に知られないようにして襲うから奇襲ってんだ。アッチの奴等は俺とお前がグルだと思ってる。そんな奴らが自分から奇襲をかけますとお前に申告はしねえと思うんだが?」

 教えたところでその計画は敵に筒抜けということになる。それでは意味がない。

「僕と君がグル?それは大きな間違いをしたもんだ。物事を正確に見抜く力も持たない輩が牛耳っているなんて、あの集団も先が知れてるね」

「質問に答えろ」

「僕だって独自の情報網を持ってるんだよ。何せ暗黒世界は無駄に広く無秩序な世界だから、境界を守るには正規のルートだけじゃ無理なのさ。門番(ダルバーン)も苦労するよ」

 わざとらしくため息を吐いて見せる門番には爪の先ほども悪びれる様子がない。
 少しだけ落ち着きを取り戻した少年が師匠の手の下から疑問を投げかけた。

「その奇襲って、やっぱり師匠を狙って来るんですか?」

「もちろんだよ。毎度の事ながらモテモテだね、ロイン」

「…けっ」

「師匠、逃げます?」

 不安そうに自分を見上げる弟子を一瞥して、紅い瞳は宙を睨み冷笑した。


「お客様のお迎えだ。色々と準備しねえとなぁ」


 そう呟いた時、奥の部屋から、何かが落ちるような大きな物音がした。




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