キミが飛び立つのなら、黙ってそれを、見届けよう。

 それが、俺に出来る。唯一の、コトだから。







     by 水無月 綾那 様  【下弦の月







 何時だっただろう。キミが、外国に行くと言ったのは。
 夢を実現する為、その為に、行くと。言った。何年かかるか、わからない。――日本に戻ってくるのか、どうかさえも。

「ごめん…ね?」

「何で謝るんだ?良い機会じゃないか。行って来いよ。実現、したいんだろ?」

 笑って、そう言う。だが、俺の心の中は、表情とは正反対で。雨が、降っている。

「…だって………」

「良いんだよ。俺は。俺は、俺で。日本でやってくだけ。お前はお前で、ウィーンだっけ?そっちでやってこいよ。な?」

 涙ぐむ、キミに。そう、声を掛けて。

「あ、今から、バイトだ」

 胸ポケットに入っている、携帯のアラーム――バイブレーターが、鳴った。俺は、そう言って、バイクに跨る。哀愁を誘うかのように、烏が鳴いた。
 キィ、キィと、鳴る、ブランコの音。遠ざかって行く、子供の声。
 刻々と、時間は過ぎて。何分ぐらい、そのままでいたのだろう。俺は、跨って。キミは、俺を見上げて。

「じゃぁ、俺。行くな。頑張れよ」

「……聡!!」

 キミが、俺の名前を呼ぶ。

「…私のこと、忘れて良いから。新しい彼女、見つけてね…」

「……夏月……」

「じゃぁ、ね」

 夏月は、踵を返して。そのまま、振り返ることなく、歩いて行った。
 俺は、その姿が。見えなくなるまで、動けなかった。
 バイクのエンジンは、掛かったまま。時計の針は、バイト開始時刻を、とっくに過ぎて。

「…バカ。……忘れられるわけ、ねぇだろ……」

 という、俺の呟きは。車の音に、掻き消された。



 バイトが終わって、帰ったのは深夜。
 部屋の明かりを付ければ、嫌でも目に入ってくるのは、夏月との思い出ばかりで。
 一緒に並んで、料理を作ったキッチンに。……用意しておいた、セットの食器に。
 洗面所に行って、乱暴に顔を洗い、顔を拭く。顔を上げると、目に飛び込んできたのは、並んだ歯ブラシ。
 俺は、苦笑するしか、なかった。夏月には、捨てろ、と言われた物ばかり、残っている。捨てられない。捨てるなんて、俺には出来ない。
 情けない男だなって、自分でも思う。未練ばっかりで。
 夏月は、今。準備をしているんだろうな。明日、飛行機に乗って、行くのだから。……もっと、早く言って欲しかった。相談、して欲しかった。と思うのは、俺の我儘だろうか?
 鳴る、携帯の着信音。こんな深夜に、誰だ?と思いながら、ディスプレイを見る。
 ――竹上 仁海(たけがみ ひとみ)。仁海なんて名前だが、男だ。

「もしもし?」

『あぁ、聡?悪い。こんな、夜中に』

 電話の向こうから、仁海が申し訳なさそうに言った。俺は、苦笑する。

「んなこと、気にすんなって。んで、用件は?」

『夏月ちゃん…外国に行くんだって?お前、どうするんだよ』

「…どうするって…どうしようもないだろ?夏月からは"忘れて"とか、"新しい彼女、見つけてね"とかまで言われたんだぜ?そうとまで言われて、どうしろって?」

 俺は一気にそう言った。思慮とか裏腹に、口は簡単に動いてくれる。直接的なものばかりが、先走りしているのだろう。電話の向こうで、仁海が絶句していた。

「…待つにしても。何年かかるか、わからない。帰って来ないかも知れないじゃぁ、取り留めもないだろ?」

『だけど…お前、好きなんだろ?今だって……』

 仁海が呟くように、俺に言う。俺は、ふぅ…と、吐息を漏らした。

「好きじゃなかったら、悩まねぇっての……。用件はそれか?もう、遅いし…切るぜ。お休み」

 仁海の言葉も聞かず、一方的に、電話を切った。そして、俺はベッドに倒れこむ。

「どうしろって…言うんだよ」

 拳に力を込めて。壁を、殴った。



 アナウンスが、流れる。電光掲示板に、文字が走る。
 俺はじっと、それを見ていた。そして、視線を泳がせる。何処かに、いるはずだ。何処か、に。
 夏月が乗る飛行機が、あと20分ぐらいで、離陸となる。だから、乗り込もうとしている、夏月に。会えると、思っていた。
 だが。何だろう、この人の多さは。
 背格好の似た人があまりにも、居て。俺は、立ち尽くすしか、出来なくなっていた。
 考えが、甘いんだよな。……俺。

「さ…とし……?」

 そう、呟く声が、聞こえた。俺は、振り向く。夏月が、立ち竦んでいた。

「よ」

 俺は、短く、そう言うしか、出来なかった。

「……見送りに、来てくれたんだ?」

 夏月はぎこちなく微笑んで、そう言った。俺はただ、頷く。

「じゃぁ、ね」

 最後まで、ぎこちないままで。夏月は、歩いて行った。声が、出なかった。どうすれば良いのか、混乱していた。

「行って…来いよ」

 そう、呟くも、姿は、もう。ない。
 阿呆みたいだ、俺。結局。何をしに、ここまで…来たんだろう。何も、出来ない。言えない。
 髪をくしゃくしゃにして、苦笑、するしか。なかった。



「高遠!!」

 俺を、呼ぶ声。前の事を、思い出していた。
 前は、思い出なんて、虚しいと、思っていた。思い出なんて、移ろうから。必要、ないんじゃないか。とまで、考えたこともあったのに。何時の間にか、それに、浸っている。
 忘れろと、言われ。捨てろと、言われ。結局、何も出来ないまま、月日ばかりが、過ぎる。
 夏月が外国に行って、既に六年。……俺は、記者として、とある出版社に勤めている。

「へぇい」

 力なく、そう応えて。立ち上がった。頭の後ろを掻きながら、編集長の傍に歩いて行く。

「何だ、高遠。やる気が見えないな」

「すんません。んで、今度は何の取材です?」

 俺がそう言うと、編集長は一枚の紙を、差し出した。

「何すか、これ」

「取材だ。海外でも有名な、ヴァイオリニストが、オーケストラと一緒に、演奏会をするらしい。それの取材に行って来い」

「東京…まで行くんすか……?」

 俺がそう、呟くと。編集長は、俺を見上げて、にんまりと笑った。

「何だ、何だ?行きたくないのか。そうか、お前の記事を楽しみにしている連中が、居るんだがなぁ……。お前、最近ろくな記事、書いてないだろう?このままだとクビになるぞ」

「へぃへぃ。わかりましたって。クビだけは、勘弁して下さいよ」

 俺はそう言って、渡された紙を、じっと見る。日時、出演者の名前が、書かれていた。目を見開き、俺は、止まってしまった。周りの音が、一瞬で、聞こえなくなったような、そんな錯覚。

 ――嶺倉 夏月

 その、名前が。あった。

「おぃ、高遠」

 ハッとして、編集長の声で、俺は現実に、引き戻される。

「どうしたんだ、お前。上の空だな」

「そんなこと、ありませんって。んじゃ、行ってきます」

 俺はそう言い、編集長に一礼すると、会社を飛び出した。それから、どうやって東京に行ったか――新幹線には乗った筈だが――詳しいことは、覚えちゃいなかった。
 俺の思考を、一つのことが、覆い尽くしていた。



 取材のカメラ、記者が、会場入り口に居た。
 俺は、会場内に入ると、辺りを見回した。ホールに足を踏み入れる。司会が、曲目について、話している最中だった。
 空いている席を見つけ、俺は、そこに座る。
 拍手喝采。オーケストラの人達が、壇上に、姿を現した。――遅れて、夏月の姿が。
 六年も会っていないのに。何も、変わっていないと、思える姿。そして、何より。懐かしい。
 じっと目を閉じて、演奏を聴いていた。時間が過ぎるのは、早かった。
 演奏が終わる度、拍手の嵐。夏月が、すごく、遠い人のように、思える。ソロを弾き熟し、夢を叶えた。俺なんかより、似合う男が沢山居るだろうな、なんて、思える程。
 俺は席から立ち上がった。そして、ホールから、出る。会場からも、出て。煙草を、咥えた。……咥えるだけで、火は点けていない。
 風が、吹いていく。時間が、更に、過ぎた。



 取材陣が、どっと、会場内に押し寄せた。演奏が、終わったのだろう。観客は、会場から出て行く。
 俺は、その取材陣の後ろの方に、一人、立っていた。

「演奏を終えての感想は、いかがですか?」

 誰かが、そう言った。

「…そう、ですね。何よりも、嬉しいです」

 そう、応えた声は。忘れもしない、夏月の声で。

「嶺倉さんは六年間ウィーンに居たわけですが…どなたか好きな人は、出来ましたか?」

 別の記者の言葉だろう。俺の手は、止まっていた。

「…いえ。出来ませんよ」

「誰か、日本に好きな人でも?」

 図々しいものだな、と思って、俺は溜息を零した。夏月が苦笑している姿が、目に浮かぶようだ。

「…夢が叶った感想は?」

 思い切って、そう言ってみた。どう、返答が、あるのだろう。

「す、すみません!」

 夏月の声が、そう、告げた。記者が、退けて。夏月の姿が、はっきりと、見えた。目を見開いて、驚いている。

「…さと…し?」

「よ。久しぶり…だな」

 そう、返した。夏月は、俺の傍まで、駆け寄ってくる。

「仕事?」

「ん、まぁ…そう。…んで、応えは?」

「……長い時間、掛かってしまったけれど、こうして…音楽を楽しむことが出来て、何よりも、嬉しい…です」

「その感動を、誰に伝えたいですか?…それが俺だと、個人的に嬉しいんだけど」

 俺が、笑いながら言うと。夏月は、俺に手を伸ばす。そして、俺は。そのまま、抱きしめた。

「…会いたかった…!!」

 そう、夏月が言う。もう、取材どころではない。

「……忘れてなんて…私から言ったのに……聡のこと、忘れられなくて。会いたくて、会いたくて…仕方がなかった。忘れて…って言った以上、会いにも行けなくて…」

「俺だって、お前に会いたかった。俺の中にあるの、お前との思い出ばっかりでさ、どうすれば良いか、わからなくなったくらいなんだぜ?」

 手を離して、じっと夏月を見つめた。夏月は涙目で。俺を、見上げて。

「あぁ、そうだ。夏月、言い忘れてた」

「なに?」

「……お帰り。ずっと、待ってた」



 まぁ、その後のことは、読者の方の想像にお任せして。
 …とりあえず、一つだけ。
 俺が書いた記事については、思いっきり編集長に没にされた。
 ――理由?
『雑誌にお前の惚気話を載せる気かー!!』と、怒鳴られた。とだけ、言っておこう。








頂き物・第四弾!
「下弦の月」の水無月綾那様より短編小説を頂きました。
ラブストーリーです。ラブですよ、ラブ。うちには存在しないものですよ、お客さん。
ただ単に、私が恋愛物を書けないだけなんですが(汗)。
切ないけどでも最後はハッピーエンドってことで、美蘭好みの一品です。
ああ、夏月みたいに愛されてみたいなぁ…(遠い目)。
水無月様、素敵な小説をありがとうございましたvvv


著作権は水無月 綾那様にあります。無断転載等は厳禁です!!


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