男は、喉の奥でくくっと笑った。 白く細く長い指が綺麗に磨かれたグラスのふちを滑る。 「愚かよな。そうは思わないか、オファ」 「貴方の飼い主がですか」 「………」 意味ありげに部下を見やり、再び可笑しそうに この男にしては珍しく上機嫌だ。 「えらくご機嫌ですね」 「冗談じゃない。気持ちよく昼寝してるところを邪魔するんだ。だっておまえ、これは あの時、それを実感したのではなかったか。 すべてを飲み込む 「喉元過ぎれば熱さを忘れるか」 口角だけを吊り上げて笑うのはこの男の癖だが、今日は一段と上がり具合が良い。 「目は口ほどにモノを言うって言葉、ご存知ですか?」 「残念ながらオレの辞書には載ってないな」 「ならばその辞書、新しく買い換えることをお勧めしますよ」 「まだまだ使えるのに」 「言葉とは日々変化し消滅し増殖していくものなのです」 新しいおもちゃを与えられた子供のようですよと部下が小さく呟いた言葉に、男は切れ長の瞳をスッと細めた。 「ユニークさを追求するのであれば馬鹿どもに加勢してやっても良いがね」 「それはそれは、先方も泣いて喜ぶことでしょう」 「でもその代償をあやつらに払えるかな?」 「支払能力があろうがなかろうが関係ないでしょう。奪えば済むことなんですから」 「意外に過激だな、おまえ。ああ、せっかくだからハウレスに 男が白い指で顎をつまんで首を傾ける。 台詞の語尾に部下の無情な言葉が重なった。 「無理ですね。公爵はもうお出かけになられましたから」 「ほう?やつは何をそんなに慌てているのだ?」 「慌てるというよりも…」 男から視線をずらして、先程見かけた公爵の様子を思い出す。 「いうよりも?」 「ワクワク、という感じでしたよ」 部下は軽く肩を ◇ ◆ ◇ ◆ 「…ここ、さっき通らなかったっけか…?」 だんだんと陽が落ちかけている。 休むために寄りかかった木の幹に三角印が刻まれているのが目に入った。 「………」 それをゆっくり手でなぞるとナイフで上からバツ印をつける。 「やっぱりだよなぁ。迷ったのかな?」 目の前の大木の幹には三角の上からバツが刻まれた印。 「そんなに複雑じゃないはずなんだけど」 この森は、同じところをグルグル回らせるほど意地悪ではない。 ここは少年にとってはホームグランドだ。隅から隅まで知り尽くしているといっても過言じゃない。迷うなどということは有り得なかった。 「でもまあ実際にこうして帰れないんだから仕方がないか」 軽く息を吐いて足元に落ちている小枝を拾い、地面に召喚陣を描いた。 「…あれえ?」 飼い猫を呼び寄せようとして紋様に手をかざしたまま、少年は素っ頓狂な声をあげた。 「……?」 丹念に毛繕いをしていたフィリシアの耳がぴくりと動いた。 顔を上げて周りを見回す。 ちょうど大口を開けてリンゴに 「あんだよ?」 「…リオは?」 「街。もう少ししたら帰って来んだろ」 あー腹減った、とリンゴを頬張る召喚士を尻目に、漆黒の瞳が不安げに揺れる。 「もう少しって、どれくらい?」 黒猫の鳴き声はその飼い主には届かない。 空間に響くのは、林檎が噛み砕かれる音と、時を刻む音。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
クラリス=コーメルは目的地の4キロほど手前の地点で、出しておいた 「…なんですって?」 彼女が言葉を発するのに少し時間を要したのも無理はない。そんな馬鹿げた報告をされるとは思わなかったのだ。 彼女の正面で跪いている部下は気まずさを感じながらも同じセリフを繰り返すしかなかった。 「辿り着けませんでした」 「迷うような複雑な道順じゃないはずだけど」 怒りを抑えた声色に部下は慌てて弁解を付け加える。 「いえ、迷子になったわけではなく、辿り着けないんです!」 建物は見えているのに、それを正面に見据えて進んでいるのに一向に近づけませんと言う。 「結界ね…でもあいつ、結界を張る力なんてあったかしら?」 異端と言えども召喚士は召喚士、魔術師とは違うから使える術も限られている。 特に彼は自分を守ることよりも派手に敵を吹き飛ばすことが好きなヤツだ。結界なんて地味な術で逃げ回ることはまずないと考えていい。 「…感付かれたか」 上官の口元が歪むのを、部下は硬い表情で見上げていた。 |